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夫の一番にはなれない
夫の一番にはなれない
Author: 葉山心愛

第1話 不穏な予感

Author: 葉山心愛
last update Last Updated: 2025-09-12 13:46:05

お茶碗が手からすべり落ち、甲高い音を立てて床に散らばった。

白い破片を見下ろしながら、わたしの胸の奥で小さな不安がざわめく。

――嫌な予感がした。

***

年明けの一月。

六年付き合っている恋人の望とは、この正月休みでさえ会えなかった。

「実家に帰らないといけなくなったんだ」

そう言われてしまえば仕方がない、と自分に言い聞かせてはみたけれど、会えない寂しさは簡単に消えない。

最近はお互いの仕事の休みが合わず、会えない日が続いていた。

せめて正月くらいは、と期待していたのに――。

そんな望から、久しぶりにラインが届いた。

《次の休みに会えないか?》

胸が一瞬、高鳴る。

もしかして、プロポーズ……?

六年という年月が、ようやく形になるのかもしれない。

そう思った。

けれど、不思議と心は浮き立たなかった。

嬉しくないはずはないのに。

どうしてだろう、胸の奥が冷えていく感じがする。

画面を見つめた。

いつもならさりげなく添えられる顔文字や絵文字が、そこには一つもない。

たったそれだけのことが、不吉な前触れのように思えてならなかった。

***

そして冬休みが明け、生徒たちが登校する三学期が始まった。

私立桜南高校で養護教諭として働いて六年目になる。

この日も保健室には、朝から生徒たちが顔を見せた。

「先生、ちょっと頭が痛いんですけど……」

体温計を手渡しながら「無理しないでね」と声をかけると、

ベッドにはすでに別の女子生徒が毛布にくるまっていた。

「少し眠れば大丈夫です」

その言葉に奈那子は笑みを返しつつ、心の中で「本当に大丈夫かな」と気にかける。

昼休みには、同期の国語教師・早川美千恵が顔を出した。

「奈那子先生、三学期始まったね。三年生もそろそろ受験の季節ね」

「そうだね。一般受験の子たちはここからが本番だからね」

「でも奈那子先生がいるから、生徒も安心でしょ。保健室は避難所みたいなもんだし。三年生も息抜きに保健室に来たりしてるでしょ」

からかうように言われて、奈那子も肩の力が抜けた。

仕事が終わっても、望からのメッセージを思い出すたびに胸がざわつき、夕飯を作る気分になれなかった。

そのまま足を向けたのは、行きつけの「café&grill LUCE」。

木の温もりに包まれた店内に入ると、少しだけ心が落ち着く。

お気に入りの奥の席で注文を終えたそのとき――

隣のテーブルに、一組のカップルが仲良さげに腰を下ろした。

それが、この夜の運命を大きく変えることになるとは、この時のわたしはまだ知らない。

料理を待ちながらスマホを眺めるふりをしていた奈那子の耳に、隣の席から張りつめた空気が伝わってきた。

声の調子からして、ただの食事ではない。

二人は飲み物だけを注文し、ぎこちなく向かい合っていた。

――穏やかじゃない。

聞いてはいけないと分かっているのに、耳が自然と隣に傾いてしまう。

「……來くん、別れてほしい」

女性の声が震えていた。

わたしは息をのんだ。

耳にしてしまったのは、まさかの別れ話だった。

男性は、黙って相手を見つめているようだった。

元々無口な人なのか、それとも言葉を失っているのか。

ただ、女性の話を最後まで聞こうとしている雰囲気が伝わってくる。

「他に……好きな人ができたの」

女性は搾り出すように言った。

「……そうか」

男性の声は低く、静かだった。

「來くんって、いつもそうだよね。私のこと、何でも優先してくれて……でも、こういうときだって引き留めてくれる人じゃない」

女性の声音には、苛立ちとも寂しさともつかない色が混じっていた。

少しの沈黙のあと、男性はぽつりと尋ねた。

「……相手とは、もう付き合ってるんだな」

その聞き方には、どこか確信めいたものがあった。

女性はためらいなく頷いた。

「うん。そうなの」

「……美緒が幸せになれるなら、それでいい」

男性の穏やかな声に、女性の表情が一瞬揺れた。

まるで、その優しさに逆に傷ついたように。

「今までありがとう」

そう告げると、男性は静かに席を立ち、店を出ていった。

残された女性はしばし俯いていたが、やがて顔を上げると、立ち上がった。

そして、わざと見せつけるように店の奥の席へと歩いていく。

わたしの視線とその先を追った。

――そこに座っていたのは、見覚えのある男性だった。

――望だ。

わたしの恋人、六年間の時間を共にしてきたはずの人だ。

頭の中が真っ白になる。

胸が、ぎゅっと締めつけられた。

望は、彼女の浮気相手としてそこにいた。

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