女の勘なんて当てにならない――ずっとそう思っていた。
でも、この胸のざわつきだけは、うまく笑い飛ばせない。 放課後の保健室は、薄いミルク色の光で満ちていた。ベッドの白いシーツ、消毒液の匂い、壁掛け時計の秒針。いつもと変わらない景色だ。
「保健室って、なんか落ち着くんですよね」
そう言って、のど飴を一個だけ大切そうにポケットへしまったのは二年生の
「落ち着くってことは、元気ってことよ。今日は帰ったらお風呂にゆっくり入って、早めに寝ないとね。この前みたいに夜更かししちゃダメよ」
いつもの調子で言うと、彼女は「はい、
“先生”と呼ばれるたび、まだ少しくすぐったい。養護教諭になって六年目。けれど、毎日が初日みたいに、誰かの体温に触れるたびに胸のどこかがきゅっとなる。
生徒がはけて、急に静かになった保健室。机に座って日誌をまとめていると、スマホが小さく震えた。
〈次の休み、会えない?〉
画面に浮かぶ名前は“
「そろそろ、かな」
小さく声に出した自分の声が、ちょっと上ずっていた。
返信を打つ指がふるふると震える。
〈もちろん。どこで?〉
すると、すぐ既読がついて、少し間を置いて返事が落ちてきた。
〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉
……ファミレス。
思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑っちゃだめだ。プロポーズって、もっとこう、夜景の見えるレストランとか、ワインとか、そういう――。
でも、わたしたちはずっとこうだった。肩ひじ張らない、背伸びしない、等身大のお付き合い。
“わたしたちらしい”って言葉に、何度も何度も救われてきた。
ロッカーから荷物を取り出し、保健室の明かりを落として職員室へ鍵を返しに行く。すれ違いざまに国語の
美千恵のこういう軽口にどれだけ救われているか、たぶん本人はわかっていない。
帰り道。駅までの並木道に、春を追いかけるみたいな風が吹いていた。ふいに、切れ端みたいな記憶が胸の内側でひらひらする。
大学四年の春。
小さな居酒屋で、緊張した顔で「これから、どうする?」と聞いてきた望。初任給の封筒が薄くて、でもわたしに小さなガーベラを一輪買ってくれた、あの日。
雨の日、ビニール傘の下で、手の甲だけが少し触れ合った道。
帰り際の改札で、言葉の代わりに肩をぽんと叩く癖――。
思い出は、いつでも優しい。
だから、時々怖くなるんだ。 最寄り駅のスーパーで、特売の牛乳と卵をひとパックを購入した。家につくと、エプロンをかけて簡単な夕飯を用意する。玉ねぎを刻むと、涙腺が勝手に動いた。
「玉ねぎのせいよね」
口に出して言い訳をしてみるけれど、胸の奥の水面は、玉ねぎとは別の理由で揺れている。
食卓にひとり座って、テレビはつけない。スマホを手に取って、母に連絡をしてみた。
「もしもし、奈那子? 珍しいわね、あんたのほうから」
明るい声に、少し安心する。
「うん。あのね、今度の休みに……大事な話があるかも」
「えっ! えっ、ちょっと待って。大事な話って、それって、そういう――」 「わかんない。わかんないんだけど、もしかしたら、って」 「どんな人なの? 名前は? この前も“付き合ってる人がいる”って言ったきりじゃない」 「……名前は、まだ。ちゃんと決まったら、紹介するね」電話口の向こうで、母が小さくため息をついたのがわかった。
「六年も付き合って、名前も教えてくれない娘がいますか」
「ごめん。わたし、こういうの、へたで」 「へたじゃなくて、慎重って言いなさい。……でも、奈那子がそう言うなら待つわ。今度こそ、いい知らせだといいわね」うん、と答えて電話を切る。
テーブルに置いたスマホが、やけに軽い。軽いのに、心は少し重たくなっていた。
六年。
長いのか、短いのか。母が一度も会ったことのない彼。名前すら言ったことがない彼。
それでも、わたしには「等身大のわたしたち」という言葉が、お守りみたいに効いていた。
――そうだった、はずなのに。
もう一度、望からのメッセージを開く。
〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉
文章は簡潔で、絵文字もスタンプもない。
いつもそうだったっけ。
今までのわたしなら、“等身大”、で片づけていた。けれど、今夜だけは、胸の奥に小さな棘みたいな違和感が残る。
ソファに沈み込みながら、ひとつ深呼吸をした。指先が、ハンドクリームの匂いを吸い込んで落ち着いていく。
早めに寝よう。明日も朝は早い。午前中は定期薬の補充に、午後は新入生のカルテの確認をしなければいけない。
“先生”でいる時間は、わたしを強くしてくれる。強いわたしになれば、たいていのざわつきは簡単にやり過ごせる。
そんなふうに信じたかった。
ベッドに横になると、暗闇が優しく寄り添っていた。天井の見えないところで、春の夜がふわふわと波打っている。目を閉じた。目を閉じても、心の奥で、誰かがささやいてくる。
――本当に、プロポーズだと思う?
――どうして昼?どうしてファミレス? ――どうして、そんなに不安に思ってるの?「大丈夫」
小さく呟いた。
「大丈夫。わたしたちは、等身大だから」
その言葉は、いつもみたいに効いてくれなかった。背中がこわばって、指先が冷たくなる。
眠りに落ちる直前、ふいにスマホがまた震えた。
〈次の休み、送り迎え出来ないと思う〉
短い一文だった。
外で会うときは必ず車で送ってくれていたのに。
わたしは既読をつけたまま、返事が打てなかった。
女の勘が、今夜だけは、静かに警鐘を鳴らしていた。
“等身大”の言い訳では包めない、何かの気配を感じていたのだろう。
――どうして送り迎え出来ないんだろう。
――そんなに忙しいの? ――ほかに理由があるの?不穏な予感は、春の夜の薄い毛布を、そっとめくるみたいに、わたしの胸の上に広がっていく。
明日になれば、笑い飛ばせるかもしれない。
明日になっても、消えなかったら――そのときは――どうしよう。
わたしは目を閉じたまま、もう一度だけ深呼吸をした。
夜の匂いと、ハンドクリームと、遠くの電車の音。
世界は、何も変わっていない顔をして、静かに続いていた。
けれど、わたしの中では、何かが小さく音を立てて、きしみ始めていた。
次の休み。 駅前の明るすぎる昼下がり。わたしは、六年分の思い出と、ひとつの予感を胸に、ファミレスのドアを押すことになる。
紅茶の表面に、照明が小さく揺れていた。耳を塞ぐみたいに、そっとカップの縁へ顔を寄せる。けれど言葉は、湯気よりも軽々と、鼓膜の奥まで滑り込んでくる。「他に……好きな人ができたの」さっきの一言が、店内の空気を少しだけ冷たくした気がした。café&grill LUCEの奥、わたしの席の隣。見ない。見ないけれど、女の人の声は澄んでいて、言葉の一本一本が輪郭を保ったまま届いてくる。「そうか」男の人は短くそう言って、長く息を吐いた。机の上で指先を一度だけ鳴らすような、乾いた小音だった。責めるでも、問い詰めるでもない。静かに受け入れる音。その静けさのほうが痛い、とわたしは思う。――もし、わたしが同じ言葉を言われたら。〈次の休み、会えない?〉望のメッセージを思い出しただけで、胃の奥がきゅっと縮む。「……いつから?」男の人が問う。抑えているのに、少し掠れていた。「はっきり、自分でも認めたのは最近。……でも、最初に気づいたのは、たぶん一年前くらい」一年前。思わず、わたしの時間も逆流する。六年のうちの“去年”は、平坦だっただろうか。仕事、望、休日のスーパー、母の電話。変わり映えのない毎日を、安心と呼んでいた頃だ。「出会ったときはいい人だなって思ったくらいだったの。……でも、気づいたら目で追ってて。最初は自分に言い訳してた。誰にでも優しい人だからって。それでも、止まらなくなって」女の人の声が、少しだけ細くなる。言い訳、と彼女は言った。言い訳は、優しさの仮面にもなる。わたしだって、“等身大”って言葉の中に、いくつの不安を隠してきたんだろう。店員さんが、わたしのテーブルへ煮込みハンバーグを運んでくる。ふう、と湯気が立って、ソースの匂いが鼻先で溶けた。「ごゆっくりどうぞ」小声で礼を言い、フォークを置いたまま手を合わせる。食べなきゃ。温かいうちに。でも、喉の手前で、何かがつかえて降りていかない。「……その人は、君のこと、どう思ってる」男の人が落ち着いて尋ねる。詰問ではなく、確認だった。女の人は少し黙って、正直に答えた。「すごく大事にしてくれてる。私がいつもと様子が違うといつもすぐに気づいてくれるの。優しい言葉もかけてくれてとにかく温かい言葉をかけてくれるの。好きだと言われてはいないけど、きっと私と同じ気持ちなんだと思う」胸のどこかに小さ
放課後の保健室は、いつもより少しだけ長い夕焼けが残っていた。消毒液の匂い、しまい忘れたカップの緑茶、壁の時計。日誌を書き終えてペンを置くと、耳の奥で秒針がまだ歩いているみたいに静かになる。「おつかれ、奈那子先生。今日も残業女神?」国語の美千恵がドアのところで手を振っていた。「女神というより番人だよ。鍵、返してくるね」「そのまま帰り? 夕飯は?」「……たぶん、あそこ」「あそこって、『ルーチェ』?」うなずくと、美千恵は意味ありげに笑って「甘いもの食べすぎないでね」と小声で付け足した。甘いものじゃなくて、今日は温かいものがほしい。胸のざわつきが、まだ消えないから。駅へ向かう並木道。風は冷たくないのに、手の甲だけが少し冷える。〈次の休み、会えない?〉スマホの画面に浮かぶ“望”のメッセージを何度もなぞってしまう自分が、可笑しい。可笑しいけれど、笑えない。角を曲がると、見慣れた看板が灯っていた。café&grill LUCE(ルーチェ)。古いレンガの壁に、真鍮色のドアノブ。柔らかなオレンジの照明。光、という名前がよく似合う店だ。一人で夕飯を食べるとき、わたしは大抵ここに来る。背伸びしない味と、沈黙が許される音量のBGMがお気に入りだった。「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」若い店員さんの声に、わたしは迷いなく奥へ進む。一番奥の窓際の席。街路樹の枝先がガラスに薄く映って、季節が少し遅れてやって来る場所が心地よい。いつもここ。今日もここ。コートを椅子の背に掛け、メニューを閉じる。頼むものはだいたい決まっている。「煮込みハンバーグと、十五穀米。あと、ホットのアールグレイを」「かしこまりました」頬杖をつくと、指先にまだチョークの粉の気配が残っていた。保健室にチョークはないのに、職員室で担任の先生たちに頼まれて黒板を拭いたからだ。こういう日常のかけらが、わたしを“先生”に戻してくれる。ポケットのスマホが、ふる、と震える。高校時代からの友人でもあり、親友の涼子だ。〈今夜も一人外食?〉〈うん。ルーチェ。〉〈しぶい。写真送って〉〈まだ来てないよ。〉〈じゃメニュー撮って〉〈撮るほどのメニューじゃ……って言うと怒られるやつ〉絵文字の笑顔が並ぶ。その顔にふっと笑みがこぼれた。〈で、例の彼
女の勘なんて当てにならない――ずっとそう思っていた。でも、この胸のざわつきだけは、うまく笑い飛ばせない。放課後の保健室は、薄いミルク色の光で満ちていた。ベッドの白いシーツ、消毒液の匂い、壁掛け時計の秒針。いつもと変わらない景色だ。「保健室って、なんか落ち着くんですよね」そう言って、のど飴を一個だけ大切そうにポケットへしまったのは二年生の瑠衣ちゃんだ。「落ち着くってことは、元気ってことよ。今日は帰ったらお風呂にゆっくり入って、早めに寝ないとね。この前みたいに夜更かししちゃダメよ」いつもの調子で言うと、彼女は「はい、奈那子先生」と笑った。“先生”と呼ばれるたび、まだ少しくすぐったい。養護教諭になって六年目。けれど、毎日が初日みたいに、誰かの体温に触れるたびに胸のどこかがきゅっとなる。生徒がはけて、急に静かになった保健室。机に座って日誌をまとめていると、スマホが小さく震えた。〈次の休み、会えない?〉画面に浮かぶ名前は“望”。大学を卒業してすぐに付き合い始めたから、もう六年になる。「そろそろ、かな」小さく声に出した自分の声が、ちょっと上ずっていた。返信を打つ指がふるふると震える。〈もちろん。どこで?〉すると、すぐ既読がついて、少し間を置いて返事が落ちてきた。〈駅前のファミレスで。昼過ぎに会おう〉……ファミレス。思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑っちゃだめだ。プロポーズって、もっとこう、夜景の見えるレストランとか、ワインとか、そういう――。でも、わたしたちはずっとこうだった。肩ひじ張らない、背伸びしない、等身大のお付き合い。“わたしたちらしい”って言葉に、何度も何度も救われてきた。ロッカーから荷物を取り出し、保健室の明かりを落として職員室へ鍵を返しに行く。すれ違いざまに国語の美千恵が「おつかれー、今日もモテモテ養護の女神?今日も遅くまで生徒残ってたでしょ」とひそひそ笑って、わたしは「女神は残業女神です」と肩をすくめた。美千恵のこういう軽口にどれだけ救われているか、たぶん本人はわかっていない。帰り道。駅までの並木道に、春を追いかけるみたいな風が吹いていた。ふいに、切れ端みたいな記憶が胸の内側でひらひらする。大学四年の春。小さな居酒屋で、緊張した顔で「これから、どうする?